
子どもの頃に読んだ寓話は、納得できないものが多かった。
そりゃ子ども心にだって、理解できる内容も多々あったけれど、今思い出しても、腑に落ちない印象が強い。
アリとキリギリスとか、断然キリギリスサイドだったもの。
え、キリギリスの何が悪くて、アリの何が優れているの!?って。
正直、いまだによく分かっていない。
寓話を読むのは子どもの頃が圧倒的だと思うんだけど、僕は大学の授業でも読んだ。
伊曽保物語というかEsopo no Fabulas。
イソップ物語をポルトガル語から室町時代の喋り言葉に訳して、しかもローマ字で書いてある。
ローマ字なんだけど、読めないんだよ。
Xとかローマ字で出てこないでしょ!?みたいな。
よしんば読めても当時の口語文だから「○○でおじゃった」みたいな感じで、おじゃる丸じゃないんだよ?的なもの。
文語ならまだ訳せるけど、一つ読むのに二つも三つも苦労した記憶しかない。
あの時だって、やっとこそさ読んだ内容に「だから何?」って思ったことしか覚えてない。
アリとキリギリスでは、断然キリギリス派だ。
その想いは、昔からまったく変わらない。
僕はブレないよ!って感じ。
惨めな最期が待っていたとしても、単に惨めさを回避するためだけに、それまでの楽しみを否定するとか、どー考えたって理解できないもの。
そんなキリギリスな僕だけど、正直、もう時間がない。
もちろん今日明日死ぬって訳じゃないんだけれど、何かを楽しめる時間ってのが、圧倒的に減ってきているのを、毎日毎日感じてしまう。
体力的、精神的、経済的、いろんなファクターが絡んで、不安で不安で、仕方がない。
これがキリギリスの末路なんですか?って。
だけど、後悔は微塵もない。
強がりとかじゃなくて。
もっと楽しみたい。
もっともっと人生を謳歌したい。
それだけ。
それだけなのに、時間が足りない。
加えて、足かせが多すぎる。
それが不安というか、不快感の原因なんだろう。
うん、不安じゃないんだ、不快なんだ。
時間がないのは納得してる。
それを邪魔するものが、不快なんだ。
邪魔なものなんて、消えちゃえばいいのにね。

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