
最近、写真を撮ってない。
もちろんカメラは毎日持ち歩いているし、一回もシャッターを切らない日はないのだけれど、それはもう惰性の域で、撮ろう!と気持ちが高ぶる行為とは、ほど遠い。
写真を撮ることを表現とは思わない。
勘違いしている人があまりに多くて辟易するが、写真を撮ることは、決して表現ではない。
もちろん作り込んで「表現」たり得る写真も世の中にはたくさんあるけれど、僕らが無料ブログで吐き出すような写真は、単にそこにあるものを記録しただけに過ぎない。
行為の善し悪しではなく、それは自己表現ではないよ、と言いたいだけ。
そこんとこ、誤解しないでほしい。
artというのは、手という意味だ。
手がゼロから紡ぎ出すものこそが芸術や表現だと僕は思っている。
だから自分の撮るものを表現なんてビタイチ思っちゃいない。
写真は手段だ。
写真を使って、何かを作り出さない限り、僕の撮る行為は、すべて無駄になる。
そして最初に書いたように、作り出すための撮影を、僕は出来ないでいる。
道具に八つ当たりするのは最低だが、僕は時々、カメラを叩き壊す。
最近はお高いカメラやレンズばかり買っているので、無意識のブレーキがかかるが、キヤノンの二桁カメラなんか、何台壊したか分からない。
カメラを壊すことは、自分の未熟さを刻み込む行為だ。
刻み込まないとダメだと思った時にしか、そんなことはしないし、したくもない。
ただ、自分の未熟さを実感するシーンがあまりに多いだけだ。
僕はウンコみたいなレベルの芸術大学を出た。
大学院まで出た。
アホかと言いたい。
好きでその道に進んだ筈なのに、在学中は表現すること、作品を作ることが、手段になっていた。
賞を獲る手段、人に褒められる手段、単位を取る手段、何もかも、手段だ。
自発的に、曰く言い難い想いをカタチにしなければ、それは表現を真似た自慰に過ぎない。
そんな分かり切ったことさえ、見えなくなっていた。
大学を出て、まったく専攻とは無関係な仕事に就いた。
その時初めて、ああ、もう追われなくて済む、と安堵した。
これからは、自分の好きなように、モノを作っていけばいい、と。
そう感じた筈なのに、また僕は追われている。
シャッターを切るだけなのに、何かしら表現した気になる、カメラと出会ってしまってからだ。
カメラや写真に出会わなければ、もう少し幸福だったかもしれない。
でも、カメラや写真に出会わなければ、今よりも寂しい人生なのも、事実だ。
最近、写真を撮っていない。
自己表現に繋がる写真を、撮っていない。

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